Ruviの独り、ヒトリ言

ド田舎に生息する浪人生の長い独り言

つよつよなコトバ

 今日から予備校が始まりました。どうも、Ruviです。今日は予備校のオリエンテーションが行われました。教材をもらい、教育システムの説明を受けたわけですがやはり私の通う予備校は厳格に生徒を管理し、実力を伸ばす方針のようです。素直に従って第一志望校合格を目指して精進していきたいと思います。テキストもよく練られたものであり安心しました。あとは私の気の持ちよう次第ですね。頑張ります。

 さて、そういえば最近よく考えるようになったのは正論についてです。この正論と言うのは忌避される傾向にありますが、しかし日々の生活の中で正論を聞かない日はありません。どうしてでしょうか。私なりにテキトウに考えてみたのでここに書いておこうと思います。まず、正論とは、これは独自の解釈ですが二人以上の相対する人間の間で正しい、またはそうであるはずだと認められていることだとしておきましょう。綺麗事とよく似ていますね。正しいことと理想は往々にして似たような性格を持つものだからでしょう。たぶん。そういうことにしておくとして、なぜ正論は嫌われる傾向にあるのでしょうか。おそらく正論がキライだ、というときにはその人は正論を言われている側であることが多い、と言うかほとんどそうではないのかなと思います。なぜなら、正論はつよつよだからです。スーサイドガールの言を借りるのならば「正しいことって説得力(パワー)があるから」です。正論をかまされ、忌む側は、それが正論であることを知っている、つまり言われたことが正しいということをすでに了承している状態です。よって自分が正しいと思っていることに反駁するのは大変難しいことなので、言われた側は非常に大きな不快感を覚えます。なので正論を言われるのを嫌うようになるのではないかと思います。もはやうっせえわとしか言い返せないですからね。逆に、正論を言われることが嫌いな人でも自分が正論を言っちゃうことはあまり気にしない人もよくいますし、正論は日常生活でよく耳にします。なぜでしょうか?私はそれもやはり正論はつよつよだからだと思います。なにか問題に直面したとき、自分の信条と相反することを誰かがやっていたとき、自分の思い通りに相手が動いてくれないとき、正論は大変強い道具となるのではないでしょうか。正論は強い言葉ですから、相手に反駁のスキを与えづらくなりますし、何よりも正論というのはその人の中でも集団の中でも短いスオ案で見ればそうそう変わるものではないですから、それを言ってしまえば終わりなのです。普遍で、口に出すだけで相手強いメッセージを発信できる、それが正論なのではないでしょうか。昨日も言った気がしますが不断に考え続けることは大変労力を要するものです。我々が日々直面する問題の中には、不断に考え、日々解決策を考え続けなかればならないこともあります。しかしそんなとき、ずっと変わらず、強い説得力を持つ道具があればどうでしょうか?使ってしまいたくなると思います。にんげんだもの。不断に考え続けなければならない問題に対して正論はとりあえずの答えを常に与え続けてくれるのです。結果的に何も解決しなかったとしても。そういうわけで正論はなくならないんじゃないかなって思います。

 まあ結局これも正論にすぎないのでしょうがね。テキトウにかんがえて寝ぼけ眼をこすりながら書いたので論理構造がテキトウになっているかも知れませんが、そのときは優しくコメントで教えて下さい。とりあえずあさってから始まる授業に向けて明日は予習しなければならないのでこの辺で寝ましょうかね、それでは、おやすみなさい。